10年くらい前に少し迷っていたことがあって、それは独立するか?ということ。

いずれは独立するということは決めていたけれども、タイミングをつかみかねていたのです。

このような言いかたが正しいか分かりませんが、父の死を見届けたとき、私自身の人生が “死の実感” を持ったリアルなものとして突然、浮かびあがってきました。

トカゲの皮膚のようにざらついたその感触は、「死んだら終わりである」ということのひとつの表現であったようにも思えます。

とにかく私は、まったく予想していなかったできごとをきっかけとして、随分と楽観的な見通しをもったまま、”死んでも後悔しないように” チャレンジをはじめました。

そのチャレンジは、成功であったのか?失敗であったのか?

あえて一般の人が気になるであろう “成否” という観点から見てみるならば、”まあ、成功でもないし失敗でもない” というレベルであったと思います。

もちろん、短期的にみれば苦しいこともありましたし、今、同じ判断をするか?と言われれば、まず間違いなくしないとは思います。

しかしそうであっても、30代になるかならないかという年端である種の “冒険” にでかけた当時の私の決断という点に限っていえば、これは褒めてあげても良いのかもしれない、と感じています。

自分に自信がなく、他人の顔色ばかりうかがっていた高校時代、いまでいう “ひきこもり” のように送っていた大学時代から比べれば、それは “遅れてきた青春” といえるかもしれません。(なんかかっこ悪いですが…)

思い出補正はどれくらい?

しかし冷静なもうひとりの私、という視点から眺めてみれば「それって思い出補正じゃん?」と言われてしまうのもまた確か。

思いでは美化される、というヤツです。

確かに、客観的にみてみれば、何か凄いことを成し遂げた、というわけでもありませんし、とりあえず自営業という形で家族三人の生活はできていますが、それもまあ “なんとかやっている” というレベルでまだまだ満足いっているものではありません。

あのとき、決まりかけていた会社にお世話になっていたならば、今はどうだろうか?

今の奥さん、子供とは出会うことはない、また別の人生の幸せというものを、味わっていただろうか?

先ほども述べたように、あのときの私の判断を正当化したいという感情はあります。しかし実際のところ、こればっかりはどうにもわからないことですし、これ以上つっこんで考えるのもナンセンスかなあ。

だからこそ、人にはある程度の思い出補正というものが必要なのかもしれません。

そして感情という側面から考えてみるならば、いつかは “良い思い出” になるのであれば、やらないよりはやったほうがよいだろう、とも言えるのだと思っています。

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